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隣人愛

竹内 修一 神父

今日の心の糧イメージ

 「キリスト教は愛の宗教である」――確かに、そう思います。しかしどこかしっくりしない気持ちを抱くのも事実です。(どうしてだろう)と考えてみたら、一つのことに気づかされました。
 それは、「愛」という言葉それ自体はとても抽象的ですが、その実質・本質は具体的だということです。抽象的とは、言い換えれば、その具体的な形はいろいろあるということです。私たちには、その工夫が求められます。

 「神への愛」と「隣人愛」――これらは、端的に同じものではありません。しかし同時にまた、分かつこともできません。なぜなら、前者は後者の根拠であり、後者は前者の具体的な現れだからです。

 このように、愛は、常に普遍的であると同時に具体的です。(マタイ22・34~40参照)ですからヨハネは、こう語ります――「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」(ヨハネの手紙一4・20)

 トマス・アクィナスは、こう語りました。「隣人愛に先立って大切な愛がある。それは、自己愛である。」最初は(え?)、と思いました。しかし落ち着いて考えてみたら、(なるほど)と思いました。
 自分を適切に愛することのできない人は、隣人を愛することはできません。適切に愛するとは、いい点とそうでない点を素直に認め、受け入れることです。それは、真の謙遜がなければできません。

 キリスト教の語るアガペーとしての愛は、具体的な行為において体現されます。それゆえ、イエスは、善いサマリア人のたとえの最後で、律法の専門家にこう語ります。
 「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ10・37)