

キリスト教には二つの大切な掟があります。キリスト教のあらゆる掟はこの二つの掟に集約されると言っても過言ではないと思います。
その掟とは、「神さまを大切にすること」と、「隣人を大切にすること」です。
この二つの掟は「黄金律」と呼ばれ、キリスト教ではとても大切にされているものです。
ところが、「隣人」と聞くと、自分の家族や友人のことだけだと思っている人たちが多いようです。もちろん、自分の家族や友人も大切ですが、イエス御自身の思いは少し違うようです。
聖書の中で有名な「善いサマリア人のたとえ」(参 ルカ10・25~37)によれば、「わたしの隣人とはだれですか」と言った律法の専門家に対して、荒れ野で強盗に遭った人が外国人であるサマリア人に助けられるというお話が語られています。
そして最後に、イエスさまは「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問い返されます。
このたとえ話は次のような内容です。強盗に襲われた人のそばを、ユダヤ教の宗教者である祭司やレビ人が通りかかりますが、見て見ぬふりをして道の反対側を通り過ぎてしまいます。ところが、そこへやって来たサマリア人は、強盗に襲われた人の傷の手当てをし、自分のロバに乗せて宿屋に向かい、宿屋の主人にお金を渡して手当てしてくれるように頼むのです。
強盗に襲われた人の隣人となったのは、このサマリア人ですが、「隣人となった」というところに大切なポイントがあるように思います。言い換えれば、私は、世界中の人たちの隣人となることができる、ということです。
家族、友人、国籍の枠を超えて、私たちはすべての人の隣人になれるのです。それをイエスさまは望んでおられます。