

手紙を書く時、私たちは相手の健康を気遣ったり、幸いを願う言葉を末尾につけて、文章を締めくくる。「皆様のご多幸をお祈り申し上げます」などと書いたりするが、それは「あなたの幸福を願っています」という実は崇高な精神が隠れているのである。他者への尊重と思いやりが日常の手紙文の中にも、当たり前のように定着しているとは、善き文化ではないかと思う。
手紙の中でも、就職希望者に対して、企業が送る不採用通知は「お祈りメール」と呼ばれている。「・・誠に残念ながら、今回は採用を見送らせて頂くことになりました。あしからずご了承くださいますようお願いいたします。〇〇様の今後のご活躍を心よりお祈り申し上げます」といった丁寧な文面で、やはり末尾に相手の幸いを祈る一文がついている。
だが、生活がかかっている就職希望者を冷酷に断っておきながら、その人のために心から祈るというのが、いかにも矛盾して感じられ、祈るという言葉が白々しく目立ってしまう。それで皮肉を込めて「お祈りメール」という呼び名になったのだろう。祈っていますという言葉が、意向に沿えない時の言い訳に使われる一例だろうか。
本来、祈りの力とは大きなもので、人間の限られた能力を超えていく。祈ることで光が射し、道が見えてくることがあり、救われることもある。だが自身を忘れ、他者のために心を尽くして祈る時、その祈りは最も遠いところに届き、道に明かりを灯すのだと思う。だから私たちは祈り合うのだ。
祈る際、ふたつの