

私は子どもの頃、家の便所へ行くのが恐くて、夜には、父や母にその間入口の所で待ってもらっていた。
ある日、母とこんな話をした。
「かあちゃん、神さまはおみどう(教会)におるとじゃんね」
「うん、おみどうにもおるばってん、神さまはどこにでんおるとよ。山にも川にも海にも畑にもどこにでんおるとよ」
「そしたら、便所にもおると?」
「うん、便所にもおるとよ。どこにでもおって、守ってくれとるとよ。じゃけん、神さまば信じたら、何も恐かもんはなかとよ。」
「うん、わかった。これから便所にひとりで行くけん。」と言ったことを覚えている。
神さまはどこにでんおるとよと、まだ小学校にも行ってない私であったが、母の言ったことを幼い心ながら理解した。
あれから70年余り。子どもだった私もおばあさんの仲間入りをした。
昨今、居場所ということばがあちこちで聞かれる。子どもの居場所、老人の居場所...。
恵まれない子どもが子ども食堂で居場所を見つけたとか、ひとり暮らしの老人が近所の老人の集まるカフェに居場所を見つけたとか...。
私はその「居場所」っていったい何だろうと考える。
それは心身の休まる所だと思う。
つまりは、自分の心に神さまが住まわれているかどうかだと思う。
人を見たらにこにこと挨拶をし、困っている人を見たら手助けする。
そんな人の心の中に、きっと神さまは住まわれるのだと私は信じている。
自分の心の中に神さまが住まわれていたら、神さまの喜ばれることをすすんでするのだろうと思う。