

ある日私は、今の若者が集う場所、街のライブハウスに行って来ました。
会場の入口には十字架の指輪やネックレスを売っていましたが、その瞬間、少し嫌な気持ちになり、ポケットからロザリオを取り出して、首からかけて気分を落ち着かせました。
ライブが始まったとたん、会場の照明が点滅し、ギターやドラムが鳴り響く中、ボーカルの叫びとともに、聴衆は右手を上げ下げします。私は目も耳も痛くなり、早々に会場をあとにしました。
私も20代の頃は、デヴィット・ボウイやジャニス・ジョップリンなどに夢中でした。彼らの声に魂の祈りを感じたからです。
デヴィット・ボウイのコンサートに行った時、開演前なのに、ステージの真ん中に、白いシルクのシャツをまとい、後ろ姿で佇んでいる人がいました。
その姿を目にして、私は竹林の幽玄の世界に誘われたような気持ちになりました。
やがてコンサートが始まり、その人がさっと前を向きました。
デヴィット・ボウイでした。右手のシャツの袖には茶室に飾るような一輪の薄いピンクの花の模様がありました。そういえばデヴィット・ボウイは、日本のお寺や庭が好きで、よく訪れていたそうです。
彼の音楽の底流には沈黙がありました。
時代背景や自分自身の年齢にも関係しますし、アーティスト個人にもよるのでしょう。ただ、先日のライブハウスでは、高揚感はありましたが、私が若い時に感じた魂の渇きや沈黙は感じられなかったのです。
私はこれまで様々な仕事、活動などの経験を経てきました。そして、今の私の拠り所はイエスの十字架です。
十字架上で「渇く」と言われたイエス...。(ヨハネ19・28)
この最後の言葉は、私たち一人ひとりに愛の使命を託しているのだと思います。