もう30数年も前、私が学生だった頃には、毎年2月5日の夕方、凍てつく風が吹く中、二十六聖人殉教者に思いを寄せて、西坂の丘では荘厳なミサが捧げられていました。
毎年、寒い寒いとカイロを握りしめ、凍える身体をさすりながら、殉教者のレリーフの前で「ルドビコ様は12歳、耳をそがれて縛られて・・・」と歌いながら、"こんな小さい子どもでも、最期まで信仰を捨てることなくいのちを捧げることができるなんて。・・私には殉教は無理だな"と思っていたものでした。
殉教者と聞くと、どうしても厳しい拷問に耐えながらも、強い信仰心をもって自分の命を神様に捧げていく姿だけに目を向けてしまいがちです。だから、彼らの素晴らしい最期と自分の生ぬるい信仰生活を比べてみては、殉教は自分には程遠い生き方だと思ってしまうのだろうと思います。しかし、殉教者の多くは、ごく普通の庶民として生涯を送り、主イエス・キリストへの信仰と希望を胸に、日々の生活を誠実に生きた人たちでした。
殉教者の時代だけではありません。現代に目を移しても、日々を懸命に生きている人がいます。
ぱっと人目を引くような大成をなすこともないけど、いつも笑顔で喜んで生きている人がいます。
「普通」という日々の地道な生き方から逃げることなく、必要以上に心を揺らさず、ただ自分の目の前のことに対処しながら神様に希望をおいた生き方をしている人がいます。
真の強さとは、こうした生き方から得られるものではないか、そうした日々の人目につかないところでも精一杯生きる生き方は、殉教者の生き方に通じるのではないかと、最近、思うようになりました。