神から生かされている身としては、力や強さがあるとしたら、そこからもらっているように感じます。
力は自分からなかなか出てきません。他から注がれているようです。
間接的には、日々の生活で仲間や家族、友人や同僚から力や刺激、励ましをもらっているのですが。
パウロは「力は弱さの中でこそ発揮されるのだ」(Ⅱコリント12・9)。「わたしは弱いときにこそ強いからです」(同12・10)と述べています。
パウロの霊名をもった作家、遠藤周作も、神を「働き」と呼んで、背中をそっと押してくれるものだと言います。物語には強い人物よりも、弱い人間にこだわり、登場人物の中心は弱い人です。イエスのことも、強いというよりは人に寄り添い最後まで棄てない姿で描きます。
著作『沈黙』の弱虫キチジローについて問われると、キチジローとは自分のことだと答えています。
その物語も過ちや裏切り、戦争など、罪の出来事から始まります。罪にこそ、救いの萌芽が隠れていると考えるからです。
パウロも「罪のあるところに、恵みが溢れる」(ローマ5・20)と述べています。
神に祈り、願い、頼るという意味で、人は他力本願です。それは、自分では何もしないということとは違います。すべては自らの肩にかかっているかのように全力で頑張ります。最善を尽くしたのち、すべてを神に委ねて安心できれば、肩の荷もおります。自分の仕事でありながらも、自分が最後まで負いきるものでもない。最後は神が背負ってくれる。
その境地にいたるまで、全力で臨めれば本望です。
どこで人に頼り、お願いし、助けてもらうのか、どこまで自分で懸命に頑張るのか、その識別は容易ではありません。よいバランスが保てるよう祈るばかりです。
神の前でただしい「甘えっ子」になる術(すべ)を授けてください。