若い頃に1年間東南アジアの国に暮らしました。初めての体験で、文化や社会、宗教観などの違いから学ぶことが多くありました。
毎日食事をしていたお家は、両親と子供たちが8人の大家族で、店子がカーテンで部屋を仕切って間借りしたり、親類の娘さんが住み込みで家事を手伝いながら大学に通ったり、誰かが転がり込んできたりと、いつの間にか知らない顔が増えています。裕福とは言えない家族も社会にむけて開かれ、自然とその必要性に応えています。
同年配の次男とは親しくなり、一緒に大学のキリスト教活動サークルに入って週末には大きなゴミ捨て場に通い、そこに住む家族と交流をもちました。炎天下を3、4キロ歩いて通う活動は若い頃にこそできた業でした。その歩みの途中で仲間とお菓子を分かち合い、話をしながら親しくなっていきます。
日々の生活で接する習慣やそこに含まれる価値観はじつに新鮮に映りました。時間の使い方が全く異なります。1時間の遅刻は当たり前で、挨拶も頭を下げる代わりに、ハーイとほほ笑んで顔と目を上げます。冗談交じりの会話がそれに続きます。同じジョークが繰り返されても、そのたびに飽きることなく楽しみます。人生の意味は、何かを成し遂げることにではなく、生きていること、生業そのもののなかにあることを物語っていました。
食事でも、おやつでも一人ではなく、必ず分かち合います。ジープに乗っても人の分を払ってくれます。人と分け合うことが生活の基本で、そこには分かち合う心があります。
いつも外に開かれた心、そして人々と分かち合う心、それをもち続けるにはどうしたらいいですか。神さま、それを妨げているものがあればどうかとり除いてください。