私が赴任している教会で、毎週「セブンステップ」という聖書の分かち合いのグループがあります。3~4人の少人数のグループなのですが、結構、自分の体験から聖書を読むヒントを掴もうとする人が多く、楽しくやっています。
ある人は、山歩きするとき、人に連れて行ってもらったところは案外覚えていなくて迷子になりそうになるけど、一人で行ったところはしっかりと覚えていて、同じ経験でも、状況によって深みの違うものになることがあると話しました。そして、すぐにそれに応えて別の人が話し始めます。それは自動車の運転でも同じだ、ハンドルを握ると、行き先の地図を覚えるものだが、人に乗せてもらって助手席に座ると、どの道を通ったかすぐ忘れてしまうと話すのです。
また、スポーツ選手はなぜ練習を繰り返すのかについて話したとき、一人がその都度頭で考えているのでは、とっさの判断ができないのでは、と語り始め、合気道をしている別の人は、体にそのルーティンワークが浸み込んでゆくのだと続けます。考えることなく体が自然に動くときにこそ、最高のパフォーマンスができると言うのです。
色々な人が色々な自分の体験を心を込めて話す、この「セブンステップ」での分かち合いは、一人ひとりの体験が、そこにいる皆の共通体験として広がっているのかもしれません。
体験をどのように自分のこととして捉えるかによって深みが違い、その後の反応が付け焼き刃的な表面だけの反応になるのか、もっと深い、聖書と結びつくような人生をかけた反応になるのか、さまざまです。
クリスマスを前に、幼子イエスが私たちの中に生まれたことを、私たちの人生に起こったこととして捉えたいものだと思います。
*このお話は2023年12月ラジオ放送分です*