最後の晩餐の席で、主イエスはパンをとり賛美の祈りを捧げ、それを裂いて弟子たちに分け与えられました。
聖書には五千人の群衆の空腹を満たすためイエスは5個のパンと2匹の魚をとり、天を仰ぎ、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて分け与えられたとも書かれています。ことに最後の晩餐の方ではパンを分け与えられたあと「とって食べなさい。これは私の体である。」とおっしゃり、(マタイ26・26)後のエピソードにおいても「朽ちる食べ物の為ではなく永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われ「これこそが人の子(私)があなた方に与える食べ物」とおっしゃいました。(参ヨハネ6・27)
子供のころから、日曜学校でもミッションスクールの小学校でも聖書に親しんできましたので、私にとって「分かち合う」という言葉は一つのものをいくつかに裂き分けるというイメージです。
同じものが沢山あっていくつかに分けるのは単なる分けっこで、至極当然の行為ですが、一つを分かち合う時は、量が平等になるか、材質によっては壊さず適切に分かち合えるかなど、ドキドキしてしまう事さえあります。
まさにホールサイズのケーキを切り分ける誕生日やクリスマスは、クライマックスが「分かち合い」です。皆でハッピーバースデーを、また、「諸人こぞりて」などを歌い、ケーキに入刀、それぞれの皿にケーキが配られると、心の底からお祝いの気持ちが湧いてきて 皆とつながっている喜びに素直に周囲の大人に感謝をしたものでした。
大人になって家庭を築き、家族と過ごす中で分かち合う具体的な体験が増えたと感じます。単に物ではなく学びあいや体験、毎日の報告や提案、喜びも悲しみも、祈り分かち合うなかで永遠の命に至る食べ物を頂けている幸せを実感しています。