30年前、私が英語が下手なままアメリカの会議に出たとき、その合い間に観光地巡りをしていました。
それを見た、韓国から来ている同僚の神父が、ニコニコ笑いながらこう言うのです。「お前は、俺よりも英語が出来ない。それなのにここの人たちに笑顔で話しかけ、よく出かけている。英語が俺よりも下手なくせにおかしい」と、いつも首をかしげていました。
確かに彼は、英語を私より上手に話します。しかし、積極的に皆に話しかけないのです。そのとき私は、語学は上手下手が基準ではなく、相手に興味があるかどうかが決め手なのだと感じました。
そんな私が最近、英語の礼拝をしなければいけなくなりました。その礼拝式で式文を英語で読み、英語のメッセージを会衆の皆に宣べなければならなくなったのです。
礼拝式の前日は悲惨でした。メッセージを文章の形では難しいので、絵本を英語で読み、短いコメントでごまかすことにしました。日本語になった絵本の英語版の読み聞かせを動画で探し出し、それを書き取り、日本語のメッセージをグーグル翻訳で訳して付け加えるのです。
それは転勤まで2年続いたのですが、集中力のないときは聞き取りづらかったと思います。英語が間に合わないときは、「すみません。日本語でやらせていただきます」と日本語で堂々とやらざるを得ません。でも皆は笑って見守ってくれました。
送別式では、英語グループの多くの人たちが別れを惜しんで出席してくれました。高校生から私の似顔絵が贈られ、小学生からは私の垂れ幕が贈られました。
そして、私は老体にむち打って皆と一緒に踊ったのでした。
振り返れば、気持ちで寄り添うことが一番の手助けだったのだと思いました。