22年前、91歳で旅立った私の母は手助けの名人であった。
まずは、私の2歳上の姉と同じ頃に生まれた近所の男の子のお母さんが産後の日だちが悪くて、亡くなった。
幸いなことに母のお乳はよく出たので、私の姉とかわりばんこに授乳させた。
その男の子はすくすくと成長し、後々まで感謝された。
我家は人と物が集まる場所であった。
中学生になると、男の子は学生服、女の子はセーラー服が定番であったので、入学の季節になると、母はあちこち駆け巡り、学生服やセーラー服を調達してあげた。
電話などない時代であったので、下駄を履いて駆けめぐるのだった。
物の調達だけではなく、困った家の幼児の世話もした。
両親が病気で長期入院の際、我家に引き取り、両親が退院するまで面倒をみた。
また、親が共働きの親類の幼児の面倒もみていた。
母親が出張の時には、母が抱いて寝ていた。
私も後年、母親になり、子供を育てたが、どんなに大変だっただろうと思った。しかも我子ではなかったから、尚更気をつかったことだろう。
ある晴れた日、川に洗濯に行くとおばあさんも来ていた。
すると母は傍へ行って「わたしが洗ってあげるけん、憩うとかんね」と言って、おばあさんの洗濯物をさっさとしてあげていた。
一事が万事、四方八方目を配り、手助けするのを当たり前にしていた。
晩年は、病室のベッドの上で、ゆかりの人たちの信仰の手助けのために祈りをかかさない母であった。