私がスマートフォンを使うときは、画面読み上げ機能の声を頼りに操作します。この機能のおかげで、通販の買い物注文から公共料金の確認まで、いままで目の見える方にお願いするしかなかったネット操作が一人でできるようになり、生活が大きく変わりました。
一方で、この読み上げ機能と追いかけっこをするかのように、アプリやサイトは次々と「見やすい」デザインにリニューアルされ、読み上げに欠かせないテキストのラベルのないマークやアイコンばかりの画面が増えました。こうして、私たちが取り残されることが頻発しています。結局、困ったらやはり目の見える方に手助けをお願いすることが少なくありません。
その意味で、私は自分はいつも助けられる側だと思っています。
ところが、実はそうとばかりもいえないかも、と思うことが少しずつ増えてきたのです。目が見えても私以上にスマホ操作が難しい高齢者の方のために、こんなにデジタルの苦手な私がお手伝いできることがあるのです。
母のスマホの更新作業はいつも私がやるし、高齢の方がラインで私と連絡を取りたいとおっしゃったときには、お会いして「友達追加」作業をリードしました。
私が利用している食材宅配で、母がほしいものをスマホやパソコンで注文してあげたりもします。商品が届くと、母は嬉しそうに「おいしいものがたくさんきて良かった、いつもありがとうね」と言ってくれます。
こんなとき私は、神様は誰にでも役割を与えておられるのだとつくづく感じます。私ができる小さなことでも神様の愛する隣人の手助けになるとしたら、神様も少しだけ助かってくださっているのかも。そう思うと、ちょっぴり嬉しくなるのでした。