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手助け

岡野 絵里子

今日の心の糧イメージ

 「手助け」という言葉に触れると、温かい気持ちになる。誰かが助けを必要とした時には、気づいた者が「手」を添え力を貸すという、人の善性を表した言葉だからだ。「救助」や「救命」には専門の知識や技術が必要だけれど、「手助け」は誰にでもできる。他者へ差し出す手と優しい気持ちがあればよい。さりげない助け手は水や空気のように目立たない。だが人にとって何より貴重なものなのである。

 時を経て、まだ鮮やかな記憶がある。その日、1歳の次女をベビーカーに乗せ、2歳の長女と手を繋いで、私は銀行のATMコーナーに入るところだった。防犯のためか、押して入るガラス扉が重く堅固にできていて、ベビーカーを支えながらの片手では開けることができない。長女も一緒に押してくれたが、2歳児の小さな身体ではずるずると押し戻されてしまう。

 苦戦していると、扉の内側で若いサラリーマンが待っているのが見えた。私たちの奮闘が面白いのか、顔では笑いながら、指はイライラと掌の中の通帳を叩いていた。

 彼は最後まで手を貸さなかったが、それは子連れの人間がいかに迷惑な存在であるかを周囲にも披露し、非難したかったからだろうと思われる。今日でもまだ、手段こそ違え、弱者を排斥しようとする「扉を開けない人」の姿はあちらこちらで見かけられるようだ。

 助けを必要とする者を切り捨てる社会と、他者を助ける社会、豊かで幸福なのは後者だろう。あの時幼児だった長女と次女が今では母になり子どもを大切に育てている。幼い子とその母たちが助けられて幸福に生きる社会であって欲しい。

 そして私たちも誰かのために扉を開ける、静かな助け手でありたいと思う。