ティリーのまなざしは、文字通りヴィクトールを救いだします。
第二次世界大戦中の強制収容所を生き延びた、精神科医ヴィクトール・フランクルは、毎朝労働に駆り出されるたびに、新婚直後に生き別れとなった若き妻の面影を思い浮かべては、そのまなざしと対話しました。その記憶は、あるときは現実をこえるほど生々しいもので、生死をさまよう日常にあって、フランクルを勇気づけ、心を温めました。この体験から、人間の本質は精神であって、愛の体験が生きる上でいかに大きな価値をもっているかを、彼はのちのロゴセラピー理論に反映させていきます。
愛する人のまなざし、生死をさまよう極限状況にあってなおも生きる力を取り戻させるほどのまなざしとは、一体どのようなものでしょう。人間の神秘、そこに秘められた力を思わずにはいられません。愛されていることの神秘は、説明が追いつかぬほど深いものです。愛された人は自由で、あらゆるしがらみからも解き放たれ、生きていることが楽しくて仕方ない子供のようです。
マザー・テレサが恵まれた環境から飛び出して、初めにしたことは、道に放っておかれた人に手を差し伸べ看病することでした。それも、神の愛を伝えるためでした。人が愛されないこと、見向きもされないことほど耐え難く、辛いことはないと知っていました。
きっと、神様の私たち一人ひとりに向けられたまなざしも、ティリーのまなざしに劣らずに熱く、激しく、暖かなものなのでしょう。それはイザヤが明言するように、その名であなたを呼び、掌に刻み、決して忘れることのない愛にあふれたものに違いありません。(参 イザヤ書49.15、16)
因みに、フランクルが件の体験をしたとき、すでにティリーはこの世から去っていました。