年月を重ねてもなお、記憶に新しい思い出のひとつがあります。
高校生の担任をしていた年の3月。春の陽射しが教室に満ちている午後、教室に残っていた中の一人が、毎週教会のミサにあずかっていることを思い出して声をかけました。
「卒業前に洗礼を受けませんか。」すると、とっさに答えが返ってきたのです。「いいえ、受けません。でも、教会にはこれからも行くつもりです。」
あれから42年の年月が過ぎた春、この生徒から一通の手紙が届きました。
「復活祭に洗礼を受けることになりました。・・謙虚でなかった私は60歳になって、あの春、シスターが語りかけてくださったお言葉に、ようやくお応えすることができます。長い長い回り道の末に。」
信じがたいほどのうれしい知らせでした。高校生だった教え子が60歳になっても、私の一言を記憶に留めていたとは!
聖書の言葉が心に響いてきます。「何事にも時がある。」(コヘレト3・1)
学業を終えてからの社会生活、そして結婚。妻として、家庭の主婦として、母として過ごしてきた年月の間、体験した喜びや苦しみ、そのすべてが「洗礼」という量りがたい恵みへの道程であったと言えるでしょう。この「回り道」がけっして無駄ではなかったことを、本人は誰よりも痛感し、感謝して洗礼に臨むと書いています。
私たち各自が到達点に達するよう、神様がみ心に留めておられる道がある、人間の目には無駄な回り道に見えることがあっても、当人にとっては確かな、かけがえのない道であることを信じ、希望して前進することの大切さに気づかされた一事でした。
*アーカイブスを再収録しました