▲をクリックすると音声で聞こえます。

生き抜く

植村 高雄

今日の心の糧イメージ

 「生き抜こう」という言葉を意識したのはいつ頃だろう?

 現在の日常生活では、私はあまり「生き抜こう」という言葉は心に浮かんできませんが、今、この言葉を意識してみた時、思い出したのは、1973年のアルゼンチンでの出来事です。

 市民の暴動とそれを制圧する軍隊との争いに巻き込まれ、機関銃の中を逃げ回っていると、横に走っていた知人が銃弾の犠牲になった時の恐怖です。

 もう一つの出来事は、最近の、ある方の死です。アルゼンチンの暴動で感じた死の恐怖があるだけに、これまで生きぬいた喜びは非常に大きいですが、この知人の死にも感銘を受けました。

 亡くなる前のある日、私はお見舞いにお伺いしたのですが、その翌日に亡くなられました。お嬢様にお伺いしたのですが、ご臨終は堂々たるものだったようです。

 私がお会いしたのはまさに亡くなる前日だったわけですが、長らくダム建設に生涯を送られた方らしく、私が言葉をおかけすると、気丈に反応を示してくださいました。お心の逞しい方だなあ、と感じました。

 お嬢様から聴いたその臨終のご様子から、私は改めて人の死は、天国への通過儀礼、天国への凱旋門、絶望ではなく永遠の幸福への道かもしれない、と思いました。

 お嬢様のお話を伺った後、色々考えている内に、キリスト様が十字架上で生涯を終えられた姿が浮かんできました。そして改めて高校時代に洗礼を受け、信仰の恵みを豊かにいただいていることを感謝しました。

 ふと、色々の不安感や悩みが生じたとき、祈りの中で神様に色々語りかけますと、何となく答えが心に浮かんでくるのです。

 神様を信じて祈ると見えてくるものがあるようです。