「人生の岐路に立つ時」。年齢を重ねる毎に、現実の言葉として胸に迫ってくるのを覚えます。
今まで歩んで来た日々を思いめぐらすとき、それは私の人生を一変する出来事であったと言っても、過言ではありません。それは親を悲しませるだけではなく、楽しみをも奪ってしまうほどの結果を生むということがわかっていました。
それでも、言わなければなりません。何よりも先によく祈り、兄に相談し、姉の意見に耳を傾け、その上で父に話をすることにしました。
父は、最後まで黙って私の言うことを聞いていました。一言も口に出しません。言っても無駄であることがわかっていたからです。かえってそれは、私にとって耐え難い苦痛でした。
最後まで聞き終えた父は、おもむろに、「私が言いたいことはわかっているだろう。けれども、君は自分で決めたことをやりなさい。君の人生は、私の人生ではないのだから。」
あの時のことを、私は今でも忘れることはできません。
それが、親にとってどれほどの苦しみや悲しみであっても、親はそれをくつがえすことができないのです。親が神様から与えられているのは、わが子を励まし、その人生を愛を持って見守り続けることですから。
修道女となる決心をした私に、イエス様はひとつのお言葉をくださいました。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハネ15・9)
これほどわたしを信頼してくださるイエス様に、これ以上何を求めることができるでしょうか。
*アーカイブスを再収録しました