ものに当たって、光はその後ろに影を造ります。光が強ければ強いほど、影も鮮明になります。人間の生き方もそれに似たものだと感じ始めたのが、神父になって自分自身のことよりも共同体のことを考えるようになってきた頃でした。
あるとき、結婚の準備をしているカップルの女性の方が、泣きながら教会を訪ねてきました。
「私たちの結婚、破談になりました。」「どうしてなんですか?」
「新居のために、私が今まで貯めてきたお金で、マンションを買ったからなのです。」「えっ!何故そんなことで?」「姑さんが、私のその様に生活を主導するのが嫌だったらしく、彼にそのことを愚痴って、彼も心変わりしたみたいです。」
そう聞いて私は、そうですかとしか言えませんでした。
結局、「結婚前にお互いの性格が分かってよかったですね」と教会のスタッフたちが慰め、彼女は帰っていきました。
私から見たら、それほどやり手の女性なら、相手は助かるはずだと思っていたので、人間の相性は不思議だと思ってしまいました。
時間がたって経験も重ねると、どの共同体の中もこんなことがあるのだと思えるようになってきたのです。
修道院にいた頃、とても賢く、講演会などでとても人気があり活躍する会員がいました。「良いですね、お宅の修道会にはあの人がいるので」そう言われることがあっても、他の会員はなんとも言えませんでした。
教会の中でも、同じようなことがあります。教会思いで能力があり、教会のためならばと奔走する人がいますが、皆に受け入れられているとはいえないことが多くあります。
一人一人の光を活かすために、光の強い人も、弱い人も、それを調整する役の必要性が本当に大切なのだと、この頃感じています。