東北の田舎に生まれ育った私は、天気といえば、ほとんど曇りや雨が多かったという記憶しかありません。ですから、学校を卒業して、信州の長野市に移ったとき、晴れて、北アルプスや志賀高原の山々が見えた時には、別世界に来たと思いました。時に雨も降りましたが、大体は晴れでした。この高原地帯の天候を経験したとき、人生の光と影がよく分かるようになりました。
善光寺の近くに住んでいましたので、よく散歩がてら、城山公園に行って眼下の善光寺平に広がる長野市の街並みを楽しんだものでした。
朝、東から昇る太陽の光が志賀高原にあたっていると、長野市辺りは丁度影にあたります。といって暗いわけではありません。影に入ると、涼しく感じますので、信州のような山国に住んでいると、影は光の陽光を指し示していると感じられます。
こうした光と影の相補性を経験すると、改めて昼と夜の相関性も分かるような気がします。闇の中にいると、怖いと感じますが、影の中にいると、光の中に包摂されていると感じます。
信州の自然に感化されたのか、私にとって、朝早く起きて歩いて教会に通ったのが、なんとも楽しい青年時代の想い出となりました。そして、教会の帰り、家並みの影が道に移っているのを見ると、家が近いと感じ、ほっとしたものでした。
光があたれば影がさします。そして、影があれば、光があるということが分かります。ですから、影を愛し、影がさし示す光の存在を信じるようになると、人生の吉凶禍福の真意も分かるようになります。「禍転じて福となす」という言葉もあります。
人生の影に出会ったら、光が近いと信じて、勇気をもって進んでいきましょう。