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光と影

植村 高雄

今日の心の糧イメージ

 「光と影」という言葉が気になりだしたのは大学時代かもしれません。

 この言葉に触れると子供時代に父母のいいつけを守らず怒られた場面が浮かんできます。

 戦時中の小学生時代、神奈川県逗子の葉山御用邸近くの海岸でカバンを放り出して泳いでいますと、アメリカの戦闘機が私たち子どもに向けて機関銃を撃ってきました。驚いて、野犬が出入りしていた御用邸の塀の穴から逃げ込んで、門番に怒られた記憶はまさに光と影でした。

 こうして人は自分の良心の呵責を感じながら光と影とは何か?と哲学を開始します。自分の心で感じる光とは何?影とは何?、と考えているうちに私は洗礼を受けたくなりました。そして洗礼を受けてカトリック信徒としての自覚が生まれますと、私は益々心が敏感になり、息苦しくなってしまった青春時代を想い出します。

 大人になり、ヨーロッパ、アメリカ、ブラジルなどを旅して、巨大な歴史あるカトリックの大聖堂や、海に浮かんでいるモンサンミシェルの美しいけれど少々不気味な雰囲気に触れますと、私は益々、自分の人生経験をこの光と影で区分けしだしたようです。

 自分の中の何が光の方に向けたのか、何が自分を影の方に流したのか、その分かれ道を示すのは何者なのか、しみじみと今、考えています。

 そうして、光と影を分つ良心の問題は、一人の人間の力でなんとかするのは無理だなあと思うようになりました。

 光と影の問題だな、と気づいたとき、一人静かに書斎にこもり、神様に向かって、いつものつたない私の祈りを始めますと、それまでの暗い心が明るい方向に向かって流れ出すのが不思議です。