子どもの頃、我家には水道がなく、裏庭の井戸水を使っていた。
天然の湧き水で、夏は冷たく、冬は温かだった。
父母は「人の恩はいつかは返せるかしらんばってん、水の恩は返されんけん、大事に使わんばよ」と言っていた。
子どもの頃に何気なく聞いていたが、大人になり、年々、自然災害などに襲われるにつけ、心に強くよみがえってきた。
同居している夫の父は倹約家であった。
「歯を磨くのにはコップ一杯の水、お風呂に入るのにはバケツ一杯のお湯があれば充分」と常々言っていた。
私の父母も夫の父母も常に自然に対する感謝を忘れない人たちであった。
「お陽さんの光がなかったら人間は生きていきやえんとよ。じゃけん朝、目が覚めたらまずお陽さんに手ば合わせろよ」
「水がのうても生きていきやえんとよ」
夫の父は「食べ物は天地の神さまが人間に与えてくれたもんやから、何を食べるにも、何を飲むのにも、心からありがたくいただく心を忘れたらあかん」というのが口癖であった。
「お米という字は八十八と書く。その字の通り、88人の人の手が働いてお米になるのやから、お米一粒、一粒を大切にせんとあかん」と言い、御飯を食べる時、ただ食べるのではなく、おしいただくというような姿であった。
私はこうして、私の父母、夫の父母から自然への感謝を身をもって教えられたことをありがたいと思っている。
しかし、その上に神さまがいらっしゃる、神さまの恩に対しては、何度もの感謝を捧げなければいけないと深く自分にいいきかせている。