「あしひきの山路越えむとする君を 心に持ちて安けくもなし」
海外から戻って初めに手にとった本はなぜか万葉集でした。読み始めると、衝撃を受けました。
みな人を想う歌ばかりではないか、と。故郷を懐かしむ、恋しい人を慕う、遠くから家族に想いを馳せる、伴侶を想う、旅の安全を気づかう歌など、次から次へと迫ってきます。
抽象語の海の中で過ごしてきた年月を経て受けるショックでした。
現代に生きる私たちは、日々行動計画をリストにあげて、終えると一つ一つ線を引いていく。一日の終わりに消された項目の多さを見て満足する。この物量的生産性に向けられた生活を生きる者にとって、万葉の人々が愛する人に向ける熱量は実に新鮮でした。
一千年以上の時空を超えて、「人を想う」気持ち、その心がいかに大切であったか、身に染みて迫ってきます。そういえばザビエルも、愛を「想い」(Vomoi)とか「大切」(Taixet)とかにおきかえていました。この人への想いや祈りを、愛とおきかえてよいのかもしれません。
してみると、人が人を想うこと、思いやること、これは人間の本質ともいえるのでしょう。
現代でも手紙やメールでのやりとりで、やはり人を想い、家族の健康と安寧を気遣い、活躍を祈ります。この「相手のいのちを伸ばそうとする」気もちは、万葉の人々の人を想う気持ち、恋心、相手をねぎらい、いつくしむ願いと同じです。
自らの心に留めておくことのできない願いや望み、この人間や世界を超えたものに心の内を明かし、誰かに分かってもらおうとする心の向かい方は、まさに祈りです。
この祈りにおいて人を想い、それを神に捧げること、この人間の貴い営みはこれからも永遠につづいていくことでしょう。