かつて、果樹園の世話をしていたことがありました。無花果、葡萄、みかん、枇杷、梅。それぞれに個性があり、神様の彩られる園を巡るのは楽しい時間でもありました。葉や実をつけない季節にも、樹々の間を歩きながら幹や枝の状態を見て回ります。虫が内部に潜り込んでいないか、表皮が傷ついていないか、肥料は足りているか、目で観察することも大切ですが、そっと手で触れて、樹の温もりを感じてみます。
ある冬の日、わたしは柔らかな陽射しを受けて佇む樹に話しかけながら、幹に耳を当ててみました。すると樹の中から「さらさらさら」と何かが流れているような気配を感じたのです。不思議に思い、何度もそっと耳を当ててみました。その時、気づいたのです! 夏には大きな葉や立派な実をつける樹が、今はまるで枯れているように見えていても、実は次の季節に備えて黙々と生きている、生かされているということに。
その感動に浸っていると『冬のあとには』という歌が生まれました。
「かたく乾いた冬の樹の からだのなかに小さな芽 ずっと前から 神さまが 準備している 春のいのち・・・」
この歌を口ずさむわたし自身も、葉を落とし、実を結ばず、ただそこに居るだけ、という時間がありました。それはこの世的には何も生産性がないように思える時間でしたが、陽射しや雨や大地から神様の恵みを吸い込んでいる冬の樹のように、生かされている時間だったと気づかされました。
「すべての出来事のうちにキリストの死と復活を見出しなさい」と、ある神父様から教わりました。これからもわたし自身、目に見える行動や働きは減るときが来るかもしれません。そういう時にはこの冬の樹のように、新しい命に備えたいと思います。