よく日本語で間違いをします。面白いものもあります。初めて富士山と耳にしたとき、日本人はなんて丁寧なんだろうと感心しました。山にも尊敬をこめて「さん」づけで呼ぶとは、と。
教会のミサで会衆は「回心の祈り」を唱えます。「私は、思い、言葉、行い、怠りによって、たびたび罪を犯しました」と。笑いを堪えるのが大変でした。「ワタシハ重い?...コトバ、オコナイ...」少し体重を増やしただけで、重大な罪になるのか、と。
他にもどかしい間違いもありますが、それも省察の種にしてきました。
例えば、旅立ち。これを耳にしたとき、なんとか「旅のはじめ」だろうと掴めました。後になって間違いだったとわかりました。「仁王立ちのような姿を想像していたからです。
「仁王立ち」も何年も前に上野駅のジャイアント・パンダ像の前で、義兄と待ち合わせたときに学んだ言葉でした。パンダ違いでうまく会えず、義兄は一時間も待たされて、普段は控えめで優しい人が仁王様のように立っていたのです。
そして旅立ちとは、家族や友人らが誰かの大きな旅の始まりにあたって共に「立つ」様子を指すと思っていました。
前へ踏み出そうとする時、不安を感じながらじっと立つのは分かります。変化は、それを成長と呼ぶときにも、喪失を伴うものだから。それはなじみ深い人生や、共に過ごした人々の一部を喪うことです。子どもたちが旅立つ前に少し長く抱きしめたとき、この喪失を深く感じました。そしてこれは私が米国を発ち日本に向かうときにも感じた瞬間でした。
いつもより少し長いこうした気づまりな瞬間は、実は恵みでした。
さらに思い出を深め、何処に向かおうとも愛する人々を共に運んでいるんだと思い知らせてくれるからです。