旅立ちによって、自分が変わり、思いがけない人生を歩むことがあります。私が尊敬する永井隆博士、そして私も同様です。
長崎大学入学後、観光地のようだからと足を運んだ記念館や如己堂で、私は初めて永井隆を知ります。
同じ山陰地方出身の博士のように、同じ長崎でカトリック信者として生活すること。さらには、その20数年後に博士の伝記を書くとは、当時の私には思いもよらないことでした。
永井博士は、1908年島根県に生まれ長崎医大に学びました。
カトリック教会で洗礼を受け、森山緑さんと結婚。いとし子たちに恵まれますが、放射線医療研究のため致命的な白血病を宣告されます。重ねて原爆被爆。一瞬にして愛する緑さんを失っても、倒れるまで人命救助と医学の発展に尽力しました。
さらに、病床に伏しても、天命に全力で応えます。「働ける限り働く。腕と指はまだ動く。書くことはできる。書くことしかできない。」と、『長崎の鐘』『ロザリオの鎖』『この子を残して』など、死を目前としながら短期間に驚異的な量と高い質の著作を次々と成し遂げたのです。
平和のために祈り、病身の命をけずり執筆し続けた博士の二畳一間しかない家は、如己堂という名がつけられました。
その「己の如く人を愛する」思いや言葉や行いは、活字となり歌となり映像となりました。それらが、どれほど戦後日本人の心をいやし、励ましてきたことでしょう。
カトリック教会では、昨年から永井隆・緑夫妻の列福列聖調査の準備が始まりました。
世界で紛争が絶えない昨今、平和を祈り愛をもって尽力した永井博士の生き方とメッセージによって、世界中の多くの人々に勇気や希望が与えられることを願っています。