「工事中」という貼り紙をするよう頼まれ、夜、簡単なポスターを作り、工事現場に向かいました。いつも行っている広場だけれど、真っ暗なところを歩くのは不安でした。この辺にスロープがあると記憶していましたが、その隣に階段があるとは知りませんでした。一歩踏み出したとたんに、そこは2メートル近い高さの階段で、次の瞬間、私は下まで落ちてしまったのです。
貼り紙をほかの人に頼んで帰宅し、次の日、外科病院に行きました。左半身のあちこちが腫れ、手の指にもかすかにヒビが入っていました。
一昨年は、左足首の骨折をし、長く養生をしたので、またかという思いがありました。そんなとき、知人に言われたことがありました。
知人はマザー・テレサの例をあげ、「マザー・テレサは写真を撮られるのがお好きではないけれど、『シャッターを押される度に、煉獄の霊魂が救われるようにと祈っているの』とおっしゃったそうよ。今はイスラエルやウクライナなどで苦しんでいる人たち、とくに子どもたちのために痛みをおささげしたら」と言われたのです。
そういえば、私は痛みをささげ、祈りの言葉を唱えたり、ロザリオをしたりしてきたけれど、苦しんでいる人々に対して連帯感をもってはいませんでした。単に痛みをささげたり、自己中心的な祈りだったかもしれません。戦争が終わるようにという「平和の祈り」もスラスラと唱えてきました。
聖母が地球のうえに乗っていらっしゃるご像があります。地球の上にある蛇を踏んだり、涙で覆われているご像もあります。聖母の痛みは個人的なことのためではなく、苦しむ人々との連帯感のためにあると理解したとき、心に真の安らぎが広がりました。