私は月に1回、聖書の読書会を行っています。2名の参加者のうち一人は若い作家です。彼は純粋な感性をもつゆえに、時々、元気がない時がありました。とくに昨年の秋は彼の様子が気になり〈彼の話に耳を傾けよう〉と思い、当日を迎えました。
ところが、読書会を行う部屋を早めに訪れた彼は、思っていたよりも元気そうでした。話を聴くと「最近、心が疲れてしまうと銭湯に行くようにしています。体と心はつながっているから、湯船に浸かると身も心も温まるのです」と言いました。
続いてもう一人、私よりも年上の友達で、一人暮らしをしている参加者が来て、いつものように3人で聖書を読んで思うことを語らい、分かち合いました。
やがて日は暮れ、外に出ると、彼は「よかったら、これから銭湯に行きませんか?」というので、年上の友を見送った後、私たちは銭湯へと続く川沿いの道を10分ほど歩きました。
銭湯に着くと、残念ながら終了時間の間際でした。私たちは気を取り直し2軒目を目指して川沿いの道をさらに15分歩きました。〈これでようやく温まれるな......〉と思いながら角を曲がると、シャッターが閉まっており、銭湯は定休日でした。
それでも私たちはあきらめず、彼は「電車で移動すれば、きっとどこかあるでしょう」と言い、さらに駅まで歩きました。――すると、その駅前には私が知らなかった3軒目の銭湯があったのです。予想外の展開に喜びながら、私たちは夜道に看板の光が灯る銭湯の入口に吸いこまれてゆきました。
湯船に浸かっている彼は瞳を閉じて、祈っているような、安らいだ表情をしていました。風呂場でも、帰り道でも語らいは続き、その日は友情の深まる一日となりました。