私たちは、時に(あり得ない)と思わずつぶやいてしまうような、辛い・悲しい出来事を経験します。それは、自然災害であったり、人災であったり、あるいはそれらが混ざり合ったようなものもあります。ある人々は、それらを不条理とか理不尽と呼びます。しかし、それが現実です。現実は、ある意味で、常に私たちの理解を超えています。
そのような時、私たちが求めるもの――それが、平和ではないかと思います。でも、真の平和とは、いったいどのようなものなのでしょうか。
聖書の中に、「マルタとマリア」の物語があります。(ルカ10・38~42)
二人がイエスを迎え入れます。マリアは、イエスの足元に座って、彼の話に聞き入ります。一方マルタは、いろいろのもてなしのためにせわしく立ち働きます。その結果彼女は、心の平安を失い、マリアに対する不満をイエスにぶつけます。
ここで語られる「せわしく立ち働く」(ペリスパオー)という言葉は、「周りから引かれ、あるべき場所から引き離される」といった意味のようです。自分のあるべき中心から離れた状態でしょうか。しかしイエスは、マルタを非難することはなく、「マリアはよい方を選んだ」と語ります。
何が起きるか分からない現実。しかも、慌ただしい現実です。その中にあって、私たちは、真の中心、すなわち平和の原点を見つめていたい、とそう思います。たとえ半径が大きくなっていっても、いつもその大切な中心と結ばれているかぎり、真の安らぎはあります。
「平和の君」(イザヤ9・5)と呼ばれるイエスは、復活の後、こう語ります――「あなた方に平和があるように」。(参 ヨハネ20章)
かつてアウグスティヌスは、「平和とは秩序の静けさである」と語りました。