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安らぎ

越前 喜六 神父

今日の心の糧イメージ

 「心の安らぎこそ本当の幸福である」、と確信をもって言えるのは、私自身の体験だからです。

 私は、東北の小さなひなびた町の本屋に満洲事変の始まった年に生まれました。兄弟10人の末っ子だったもので、普通なら両親に可愛がって育ててもらうはずだったでしょう。しかし、両親は私が小さい時に亡くなりましたので、店を取り仕切る長男の嫁、すなわち義理の姉に育てられました。兄嫁には私と同年代の子ども、姪と甥がいました。

 戦争中のことでもあり、他の兄たちは学校を卒業すると、仕事を求めて、皆実家を離れ、東京や仙台に行きました。

 曇りや雨の多い地域ですから、陰気な気持で独り寂しく机の前に坐っている日々でした。学校も面白くなく、ラジオ店から流れてくる「裏町人生」の歌を聞きながら、独りとぼとぼ学校に通いました。

 小学校4年生のとき、都会の専門学校の学生であった姉が帰郷してきました。その姉からキリスト教の話を聞いて、神さまを信じた私は、心の安らぎを求めて、よくお祈りをしました。しかし、心の安らぎを経験することはありませんでした。

 18歳のとき、教会に通い、洗礼を受けたときには、慰めを経験しましたが、まだ、平安という心の安らぎは感じませんでした。

 心の平安という真の安らぎを経験したのは、正直なところ、イエズス会の修練院で「すべてを神さまに奉献します」という誓願を立てた時でした。

 そのとき、すべての執着を捨て去ったときにこそ、神さまが万事において万事となられることを実感しました。

 ああ、これが本当の安らぎなんだなあということがわかりました。

 この心の平安があったからこそ、無事修練期が終えられたのです。