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渇き

シスター 山本 久美子

今日の心の糧イメージ

 教会は、今、復活祭の準備期間である四旬節という季節を過ごしています。伝統的に、四旬節は私たちに「祈りと節制と愛の業」を呼びかけます。それは、イエスの御受難と十字架上での苦しみと死に思いを馳せ、自分自身も神のみ前で心を改め、新しいいのちの道に立ち返るためです。

 昨年のこの時期、私は、「この四旬節の勧めを『エシカルな渇き』として行う」という記事を見つけました。そして、この「エシカルな渇き」という言葉に惹かれ、その意味を味わい、あらためて四旬節に呼びかけられる「回心」や勧めの業について大切なことに気づかされました。

 四旬節ばかりではなく、教会では、祈り、忍耐や犠牲、施し等、そのための何等かの善行が美徳とされることが度々あります。ストイックになればなるほど、達成感もあり、自己満足に陥ってしまうこともあるかもしれません。

 しかし、「エシカルな渇き」とは、節制によって味わう飢えや渇きを通して、心をイエスの苦しみや、今、隣にいる人、世界のどこかで苦しむ人々に向けて、真の共感を学ぶことです。自分の我慢強さを誇示したり達成感を得たりすることが目標ではありません。

 イエスは、十字架上で「渇く」と言って、亡くなりました。(ヨハネ19・28)このイエスの渇きこそ、真のエシカルな渇きではないかと、私は思います。病気や貧しさで、あるいは、社会からも疎まれた人々の多くの苦しみ、哀しみ、恐れや不安に接し、そのために干上がってしまった人々の深い渇きに共感された、イエスの最期の言葉だったのだと感じます。

 イエスは、人々の渇きに痛みをもって共感し、「その渇きは必ず潤される」と、自らの死と復活を通して示されたのだと思います。