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与えることは受けること

越前 喜六 神父

今日の心の糧イメージ

 「分かち合い」という言葉は、「分け合う」という動詞から来た言葉と理解しています。

 私は、東北の田舎に生まれ、大家族でしかも両親を早く亡くして育った上に、戦時中で物資も少ない中でしたから、子どもの時から、何かを分けてもらったという記憶がありません。そんな物質的に乏しかった時代を過ごした私ですが、大人になって、「精神的なケチ」にはなりませんでした。

 それは、神父になり、教員になって、他の人に何かを教えるという時、特に真実を教えること、そのこと自体が嬉しく楽しいこととなったからです。

 「教える」というと、高みからの上から目線と非難されがちですが、そうではありません。自分の体験で、教えることは学ぶことでもあると実感しました。

 誰かが深い真実を話せば、聞いた人にとっては外から新しいものをいただいたと思います。しかし実は、人の魂の奥深くには、本来、愛や真実という宝が内在していて、すでに潜んでいるその宝を想い出すだけなのです。それが、「なるほど、わかった」という実感なのです。

 子供は何も知らないとされているのは、子供がこの宝を忘れているからなのです。また、子供が時々凄いことを言うのは、この宝をひょっこり思いついてそれを口にするからではないでしょうか。

 このように、教えたと思っていても、実は人の魂の奥深くにある愛や真実が思い出されて「なるほど」が発せられ、それがまた私にとっての学びになるといったことがあります。

 分かち合うとは「与えることは受けること」だと言えるでしょう。

 物質的なことでも、「お互い様」の気持ちで分け合えれば、もっと暮らしやすくなるのではないでしょうか。