小学校の帰り道、(うちの学校のよい子たちには内緒ですが)、まっすぐ家に帰ったことはほとんどありませんでした。毎日、仲間たちと一緒にいろんな道を探索し、遊びながら帰っていたことを懐かしく思い出します。
ある日には、田んぼの用水路に大きめの葉っぱを流して、それがどこまで旅するのかと追いかけました。その葉っぱが網なんかに引っかかりそうになると、「がんばれー! 引っかかるなー!」と応援したりもしました。
今、そうやってみんなで歩いて帰っていた日々のことを思い出すと、新たな道を見つけることが、どうしてそんなに楽しかったのだろうと不思議に思います。
きっと、みんなの心には、内なる声が響いていたのだと思います。
それは、「こっちに行きなさい」という指示ではなく、「こっちに来なさい」と呼ぶ声です。でも、どうやってそこに行けばいいのかは、教えてくれません。まるで、「歌いなさい」と言われるけれども、何をどのように歌えばいいのか、教えてもらえないように。
それでも、教えられなくても、ぼくたちはいつの間にか歌っているのです。
「ひとつの歌を響かせようとするとき、それがどういう歌か、歌ってみるまでは、未来への期待のうちにあるのみだ」と聖アウグスチヌスは言います。
歌いはじめると、今歌おうとしているメロディーに一心に集中します。歌うことで、ついさっきまで未来にしかなかったそのメロディを過去へと送り込みます。すると、歌われたメロディーは、記憶のうちに生き続けるものとなります。
一人ひとりの人生は、そのような歌に似ています。そして、幾千もの人々のそれぞれの人生は、一人ひとりをこよなく大事にする神の記憶に刻まれて、永遠に響き渡る旋律となり、大合唱となっていくのです。