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捧げる

片柳 弘史 神父

今日の心の糧イメージ

 田畑の豊かな実りや家庭の幸せを願って神に捧げものをする習慣は、どの文化にもあるだろう。キリスト教の聖書の中にも、人々が神に捧げものをする場面がたびたび描かれている。聖書に登場するのは、主に放牧で羊や牛を育てていた人たちなので、捧げものには動物が多い。中には、見栄えのする高価な捧げものをし、それを誇る人たちもいたようだ。

 しかし、神が喜ぶのは、そのような立派な捧げものではないと聖書は記している。神が最も喜ぶ捧げもの、それは「打ち砕かれて悔いる心」だというのだ。「打ち砕かれる」とは、思い上がりをこなごなに砕かれることを指している。思い上がって人を見下し、自分には何でもできるというような態度で生きていた人が、自分の限界に気づいて打ちのめされ、神の前にひざまずいて祈る。そのような祈りこそが、神に最も喜ばれる捧げものだと聖書は教えているのだ。(参 詩篇51・18~19)

 このような捧げものをするとき、その人に幸せが訪れる。傲慢な態度で人々と争って生きる生活から解放され、謙虚な態度で人々と仲よく暮らすことができるようになるのだ。神が喜ぶ一番の捧げものは、わたしたちが互いに助け合い、支え合いながら幸せに生きることなのだといってもよいだろう。聖書の教える捧げものは、神や教会を富ませるものではなく、わたしたち自身を豊かにするものなのだ。

 逆に言えば、どんなに立派な捧げものをしたところで、それを誇り、思い上がって人を見下すようになれば、その人は決して幸せになれないということだ。神が最も喜ぶ捧げものは「打ち砕かれて悔いる心」だということを肝に銘じ、謙虚な態度で家族や仲間と共に生きる毎日を神に捧げてゆきたい。