自分の何かを「捧げたい」と心底感じた思い出があまりないのです。
少年時代に読んだ西洋の騎士物語には白い馬に乗った騎士がお姫様に花束を捧げる場面を覚えていて、「捧げる」などと云う行為は自分には関係ない世界だなあ、と寂しく感じた思い出があります。
カトリックの洗礼を受けたころから「自己犠牲」とか「捧げる」という世界がある事に気づきます。社会に出て、この言葉の重要性に気づきます。自分の人生を捧げて危険をおかしつつ日本に来られた神父さんの物語を知り、キリシタンの歴史も知ります。
どうして、ここまでするのですか、と神父様に質問しましたら「ヨハネによる福音書」を読みなさい、と言われます。読み進めるうちにキリシタンの方々の信仰の深さに気づきます。
自分を捧げて迄、人々の為に生き抜いていく人間とは何と素晴らしいと感動しました。
欧米や南米に旅をしますと、日本人が道端のお地蔵様に気軽に挨拶をしながら畑に向かう人々のように、彼の地では、道端の聖母像に花を捧げる姿に気づきます。
欧米の大学の研究室で「真善美と五感と喜怒哀楽の関係」などを宗教心理学から学びだしますと、日常生活の喜怒哀楽の背後に、深い信仰と愛の感情が流れていることに気づきます。幼稚園児の喧嘩の涙の中にも、食べていくために嫌いな職業を必死にこなしながら生きている人々の喜怒哀楽の背景にも、深い神様の摂理があるようです。
今、世界は従来の法秩序が崩壊して何か恐ろしい姿を見る毎日ですが、愛である神様は何かを示唆しておられるようです。いつか近い日、この地球を悩ませている問題の意味が分かってくるような気がします。
神様、早く温かく楽しい平和が来ますように。