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捧げる

シスター 山本 ふみり

今日の心の糧イメージ

 手偏に奉ると書いて捧げる、いわゆる人間の手で高貴な方に奉るのです。そう思うと、捧げる意味がよく分かります。

 神様は何でもご自分でお出来になるのに、人間の力を借りようとなさる。自分に捧げて欲しいと願われる。人間に協力を求められる。そう感じるのは私だけだろうか? 私は自分のわがままを捨てて、どれだけ神様のみ旨を果たせているか?自問自答する。

 当修道会の憲章の【はじめに】に次のようにある。

 1873年、禁教令が解かれ、パリ外国宣教会の司祭たちは、迫害ですべてを奪われたキリシタンの信仰と生活の立て直しに着手しました。

 1877年 長崎各地で神と隣人への愛に動かされた女性たちの共同体が出来ました。共通していたのは、迫害に耐えた体験と、司祭の声を神の声として聴いた信仰でした。

 極度に貧しく、学問も無く、差別に苦しみながらも、全てを指し出して司祭の手足となりました。姉妹たちは『御旨たい』『ささげんばね』と声を掛け合い、日々の出来事を御父のみ旨として受け取り、十字架のキリストの苦しみに合わせて捧げました。

 これは、私の先輩方の事で、「捧げる」という本当の意味と修道者としての「基本の基」がそこにあります。

 厳しい生活の中で助け合って生き、しかも、何もない所から司祭の声を神の声として絶対の中で従ったのです。「捧げる」とは、神様の物になるという意味で絶対なのだと思わされます。

 わたしはどれだけ「ささげんばね」を生きているだろうか?

 長崎弁の中に土着した信仰と愛を感じつつ、清貧、貞潔、従順のもと、神様が喜ばれる本物の修道者を目指して、これからの人生を捧げ尽くしきれたらと願い、祈っています。