今朝、聖堂に入ってはっとしました。3日前、誕生日祝いに頂いた花が祭壇の前に飾られていました。朝日を受けて美しく輝いていました。透明の花瓶に入れられていました。あっ、切られている。花の茎の切り口が見えたのです。
人間の祝い事の為に、花は命の繋がりの大地から切断されている。命を捧げてくれているのだと思いました。花束として受けた時には感じなかった"命の捧げ"をはっきりと示していました。しかも一言も声を出さずに。
人間が生きる時、沢山の"命の捧げ"に囲まれているのですね。
食事の時に食べたサラダのキュウリがもがれた時、トマトがもがれた時、ニンジンが土から抜かれた時。みんな命を捧げてくれた時なのですね。お刺身も焼き魚、煮魚も、焼き肉もすき焼きも。海苔もサザエも、ご飯もパンも。当たり前の事ですが、朝から晩まで数え切れない命の捧げの中で支えられ生きているのですね。
そして、身近な人びとから見えない所にいる人々の命の燃焼、すり減らしで支えられています。
ふと、誰かが祈ってくれていると感じます。誰かが命を捧げてくれている。孤独な人、困難の中にいる人の為に、世界の人々の為に祈ります、と。
命の捧げ合いが世界を、人類を変えていく、豊かな新しいエネルギーが渦巻き湧き出すのを感じます。諦めてはならない、日々刻々の命の捧げに連帯し、共に歩みましょう。
イエスは言います。「私は天からのパンです、いのちです。私を食べなさい」(参 ヨハネ6・22~59全体)
命の捧げは歴史の中に実現して、ますます広がっています。生きるということは命の捧げを受けること。そして命を与えることなのですね。あなたの喜びと輝きの為にわたしの命が燃え輝くことに深い感謝です。
ありがとうございます。