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捧げる

シスター 山本 久美子

今日の心の糧イメージ

 「捧げる」行為の前提には、愛があります。愛すればこそ、何かを捧げられるのだと思います。自分の努力よりも、何かに促され、駆り立てられるような行いではないでしょうか。

 20代前半、私は、初めて障害のある子どもたちと出会い、生活のお世話をする仕事につき、それまで子どもたちと接すること自体あまり経験がなく、戸惑うことが多い日々が続きました。今、思い起こすと、人々に奉仕するということへの憧れは強かったのですが、あまりにも未熟で、関わった子どもたちに十分なことができず、苦しい毎日でした。

 ふり返ると、苦しかったのは、他者を心から愛せない自分だったからだと思えます。

 それから、いろいろな経験を重ね、神に人々に「愛される」自分に気づき、味わう機会をたくさんいただきました。

 「愛される」経験は、自分で自分自身を肯定でき、私を大きく成長させてくれました。特に、キリスト者として、イエス・キリストがご自分の命を捧げるほど、私たち一人ひとりを愛されたということを、頭のレベルから腹の底で実感し、味わった時、私も、少しずつ何等かの方法で自分の時間や自分自身をよろこんで他者に分かち合い、差し出せる、愛する者に変えられてきたと感じています。

 英語の"cannot help ~ing" という表現を思い出します。日本語では「~せずにはいられない」という意味でしょうか。私は、「捧げる」という意味は、「せざるを得ない」という究極の選択を迫られる行為だと感じます。したくないが、どうしてもそうするということではなく、人々に接し、その必要性に向き合ったイエスが、はらわたを動かされ、一人ひとりに自分を差し出していかれたその姿に通じると思うのです。