仏蘭西語で家庭を、フォワイエといいます。かまどと言う意味だそうですが、私は好きです。
日本語では家庭はイロリとはいいません。しかし、昔、日本の農家では家族がイロリをかこんで、食事をしたり、餅をやいたり、笑ったり、今日あったことをしゃべりあったりしたのです。婆さまは孫に昔々の鬼の話や狐や狸の話をそのイロリバタできかせ、孫は大きくなってから、同じイロリばたで息子たちに同じ話をくりかえした。
そんなイロリのかわりに今日の日本人の家庭では茶の間があります。しかし電気ストーブにテレビのある茶の間は便利で合理的でも昔のイロリのなつかしさは出せますまい。
日本人が家というものを自由を拘束する場所と考えるようになってから、イロリ的な家庭の味は次第に我々の間からなくなっていきました。
食堂で食事をする。食事がすめば息子はテレビに熱中し、母親は週刊誌をめくり、父親はあくびをしながら自分の部屋に戻ってしまう。それはそれでいいのでしょうが、何か殺風景な感覺がつきまといます。
私は自分の息子が大きくなって、かつての大人が子供の頃、イロリばたをなつかしんだように、思い出してなつかしむものが自分の家にあるのかと時々考えます。おそらくないでしょう。
狐や狸の話をしても今の子供は馬鹿にします。イロリばたでやく餅や甘栗のかわりに出来合いのお菓子のほうが彼等を悦ばせるのです。しかし、しかし、あゝ、今の子供は不幸かもしれぬ。何かあたゝかみのあるものを失ってしまうのではないか。
私は息子にそう言いましたら、小学校2年になるこの息子は笑いました。
「テレビのほうがずっといゝや。だってイカスんだもん。」