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導かれて

松浦 信行 神父

今日の心の糧イメージ

 ロザリオの月になると思い出すことがあります。私の中学生時代、夕食を終え、親父が家に帰っていると、夕の祈りが始まります。私の家の夕の祈りは、ロザリオ5連(1環)と決まっていました。アベ・マリアの祈りを繰り返し繰り返し祈り、その途中で主の祈りと栄唱の祈りとが挟まってくるのがロザリオの祈りです。

 夕食後ですから、私たち子どもはお腹が膨れて眠たくなり、ムニャ、ムニャと言葉にならない祈りをし始めるのが常でした。すると、親父が祈りを一連追加するのです。だから私たち子どもは早く終わって欲しいと思っているので、眠たくならないように頑張るわけです。

 このロザリオの祈りは、頭の中で別のことを考えていても、祈りを覚えているので、口だけでもしっかりと祈れます。同じ祈りの繰り返しですから頭が集中しないときでも祈れます。

 パニックに陥ったときでも祈りたくないときでも口が動きますから祈れます。

 今から考えると、横になってロザリオの祈りをするときもあったのですから、私の両親はどういった思いでこの祈りの時間を取っていたのだろうと振り返ることがあります。

 多分、家族がそろって神に向かう時を味わっていたのかもしれません。一緒に食事を取るのと同じように、日常生活の中で一緒に心の食事を取り、それが負担とならないように、自然体の形で神がいつもそばにいることを味わうようにと、両親は考えていたのでしょう。

 そういった両親に導かれて祈ったロザリオ。

 どんなときでも、失意の時でも、神を意識していないようなときでも、ロザリオの祈りを始めれば、しだいに神を意識し、親しく感じられる土台を作っていくように思えるのです。