庭師をしている弟から、ふいに電話があった。
「もしもし、ねえちゃん? 利雄です...。今、お客さまの家の庭の木を切るから、いっしょにお祈りをしてもらえないだろうか?」
その日は、弟がひとりで庭の仕事をしているようでした。
「えっ、木を切る時にお祈りをするんだ」と私は心の中で思いました。
「『ヨブ記』十四章の七節から九節を読んでから、祈ってもらいたい」と弟。私は急いで聖書を開いて、読みはじめました。
木には希望がある、というように
木は切られても、また新芽を吹き
若枝の絶えることはない。
地におろしたその根が老い
幹が朽ちて、塵に返ろうとも
水気にあえば、また芽を吹き
苗木のように枝を張る。
それから、私の言葉で祈り、弟も祈り、電話を切りました。
弟は庭師になった頃からこの箇所を朗読して、祈ってから木を切っていたという。庭師にとって仕事とはいえ、命のある木を切るというのは大変なことなのだと、はっとする思いを抱きました。
弟からの電話は、自分の庭師としての姿勢からだったとは思うけれど、私には殉教者たちが働いていると思わざるを得ませんでした。なぜならちょうど、17世紀前半に日本各地で殉教した、「福者ペトロ岐部司祭と187殉教者たち」について調べていた時だったからです。殉教者たちはその世代限りでは終わらない、「今もいつも世々に」という確信を抱きました。
この殉教者たちは、幼子から老年まで、司祭、修道者、そして信徒もその家ぐるみでしたので、人間の縮図を見る思いがしました。
殉教とは、命を献げて終わりではない。彼らは、はかないこの世から永遠の世界へと導かれて、神の愛の証し人として今も働いているのだから。