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晩年に思う

植村 高雄

今日の心の糧イメージ

 大学時代の親友がばたばた天国に旅立っていくので、私はすっかり「生きがい」というものを無くしていました。

 平凡な日常生活の中でも「ああ、生きていて良かった」と感動する度合いが極端に低くなっていたようです。例えば、妻が作ってくれた料理に、朝食や夕食の度に「何と美味しいことよ」と感謝していたのですが最近は、「有難う」という言葉すら言わなくなっているのに気づきました。

 今まで感動したり、感謝していたもの、例えば、明け方の太陽の光に心を洗われたり、早朝、散歩がてらに近くの神社の境内で太極拳を楽しめていたのが、その散歩すらしていないことに気づきました。

 以前、生き生きしている自分のことを「何と幸せな人生よ」と喜んでいましたが、今はあまりそう感じないのです。

 若い頃、欧米で比較文化論と比較宗教心理学を少し学んだことがありそれ以来、理性では死の意味を理解したつもりでした。が、今、改めて自分の死のことを正面から考えだすと、「五感と体感のレベルで」死を恐れだしているのだということを認識し、はっきり意識するようになりました。どうやら親友たちの死が、今の自分の生きがいを喪失させ、全てを虚しくしていた遠因のようです。それで、それまで感じていた「生きがい」が消滅し、変化していたのです。

 こんなことを思いながら、多摩川の流れをぼんやりとながめているうちに、突然、若い頃に聞いた恩師の言葉が泉のように湧き出しました。

 「自分の死は永遠の生命への通過儀礼」。

 人間の死は終わりではなく永遠の幸せ、完全な愛の世界、凱旋門かもしれないと思い直し、抱いていた虚しさから解放されて、明るく楽しい晩年を送ろうと、あらためて決意したのです。