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すみませんが

遠藤 周作

今日の心の糧イメージ

 夏の私の家に、一週間、一度ほど来てくれるマッサージの女性がいます。実家はこの街でも有名なおそば屋さんで、彼女は別にマッサージなどしなくても生活に不自由はないのですが、自転車で朝からあちこちの家をまわって、働いておられるのです。

 彼女は15才の時から、この避暑地に来ていた有名な政治家、尾崎咢堂氏の家に奉公に出ました。尾崎萼堂氏は日本の政客の中で、もっとも節義と事の是非をわきまえた人だったと我々は記憶しています。

 戦争中、軍部の横暴に他の議員たちがおそれおのゝいていた時、尾崎先生が、これに反対しつづけたことは当時まだ中学生だった私も知っていました。

 マッサージをしながらこの女性は私に尾崎先生のことを色々話してくれましたが、その中の印象にのこった一つの話は、先生は書生さんや、お手伝いさんに物をたのむ時でも必ず「すみませんが」という一言を付け加えられたそうです。

 私は留学していた時、仏蘭西人がこの「すみませんが」という言葉を非常に使うので、なかなかイイものだとおもっていました。しかし帰国後、私は日本語の会話にこの「すみませんが」という言葉を身内や家族にたいしてほとんど使いません。いや、全くといっていゝほど使っていません。身内の者も私がそう言わなかったからと言って別に腹を立てるわけでもありません。親しい間柄では日本語ではあまり言わぬようです。

 しかし尾崎先生の話をマッサージの女性からきいて、私はやはり、いゝなあとおもいました。いゝなあと思う以上、私も先生にこの点、学んで損はないのです。子供にも何か物を頼む時、私は「すまないが」と言おうかなどと考えておリます。子供は急に変わった親爺の口調にビックリするかもしれません。しかし、悪い気持ちは決してしないでしょう。