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大木

遠藤 周作

今日の心の糧イメージ

 私の家は東京の郊外、新宿から1時間ほど電車でゆられた所にあります。3年前、引越してきた頃は周りにみどりの林や丘が沢山あり、朝、目をさますと、色々な小鳥の囀りが聞こえてきたものでした。

 それがこの3年間のあいだに、土地業者の目をつける場所になりました。たちまちにしてブルドーザーが丘をむざんに切り崩し、沼をうずめ、林の木を切り倒していきました。

 「僕の遊び場がなくなっちゃうよお」
 息子はそれをみるたびに、悲鳴をあげています。
 「仕方ないさ」大人の私は彼を慰めてやらねばなりません。
 「だれだって、空気のいゝ所に住みたいからね。」

 友人のS君の家も私の近所にありますが、彼の息子さんもまだ小学生です。この子供は樹がとても好きで、とりわけ、自分の家の近くにある1本のケヤキの大木を英雄のように考えていました。地面にどっしり根を張り、雨や風にも堂々と耐えて、空に直立しているこの大木は少年の彼にとって、強いものの象徴であり、憬れだったに違いありません。

 「この木を切るな」

 彼は土建業者のおじさんたちがくるたびにブルドーザーがこの大木だけは避けて通ることを願いました。

 「この木を切るな。この木はぼくのものだ。」
 彼はそう書いた札をその大木にぶらさげました。

 しかしある日、勞働者たちがやってきてこの大木を邪魔だと思い、遂に切り倒してしまったのです。空が素晴らしく青い日でした。

 少年は一日、家に閉じこもって外に出ませんでした。

 私は、彼が人生というものには、空が素晴らしく青い日にも自分の夢が挫折する事件の訪れることを学んでもらいたいと思いました。しかし崩れるな、夢を崩すな。築き直せ、そう言いきかしたい気持ちでした。