私の日常で、「ひらめき」が多いと感じるのは黙想の時です。
毎日の福音の中から自分の立ち位置を決めて黙想しますが、同じ個所でも自分の立ち位置で随分違ったものを感じますし、「目から鱗」のような時もあれば、「この事を私に伝えたかったのだ」とあらためて気づかされたりもします。そして最初は何が何だか分からなかった箇所がだんだん読み解けてくると、今度は、私だったらどうしただろうか?こんな事はできないな~とか、そうした現実を突きつけられます。
そんな中にあって主の助け方を見るのです。
こんな時はこうすればいいのかも知れない、とか、全く別の方法をみつけたりもします。
私自身の心の問題ならば、考え方を変えて挑戦してみるとか、何らかのひらめきがあります。
この「ひらめき」、これこそが主からのメッセージなのではないか?と思います。「主が私にだけ特別に教えたかった事」なのだと感じるのです。もうここまで来ると、楽しくなってきます。
今日はこれだったな。明日は何を?と主が私にだけくださる愛のメッセージに気づくからでしょう。もちろん自分の嫌なとこや、ダメな所、触れたくない事も、ありのままに見せつけられますし、疑問のままの挑戦だったりもします。それでも嬉しいのです。何かに挑戦出来る事が無限にあるのだと気づくからです。
そして何よりも私が不完全で弱く脆い者であることを、誰よりも何よりも感じつつ、主が共にいてくださる事を実感出来るからです。
当たり前の生活が当たり前で無い事を気づく時のように、主の愛を感じるからです。
「ひらめき」を、神様からの私だけへの愛のメッセージだと気づき、恵みとして日々の生活の中で活かしつつ生きることができますように。