誰もがふれあいを求めています。人が神とふれあうとき、一体何がおこるのでしょう。聖人と呼ばれる人たちの自伝や日記には、魂の高揚があった、尽きぬ喜びに充たされた、すべてを一瞬にして悟ったなど、かなり劇的な体験が記されています。
さらに神に触れた人々はその後、人生における何らかの変化を経験します。神に仕えたい、社会に役立ちたい、世界から貧しさを無くしたい平和の道具になりたいなど、心の奥深くに強い望みを覚えます。聖性の歴史は、その時どきに、善の酵母となって社会に貢献した人々の歴史でもあります。
作家・遠藤周作もやはり、『沈黙』『深い河』などの代表作において人が神にふれる物語を紡ぎました。正確には、神が人に触れる物語です。というのも遠藤は、この世で神は、私たちの人生に、人との関わりや出来事において働いている、と考えたからです。
私たちの信仰も、神がこの世に、私たちの人生や生活に深く関わっていると捉えます。「神はその独り子をお与えになるほど、世を愛された」(ヨハネ3・16)と信ずるからです。ただ神は対岸で、別世界から見守るだけ、とは考えません。
遠藤も神と人間とのふれあいを、あからさまに描く代わりに、主人公をして、自分の人生に何がおこっているんだろうと、一瞬自問して立ち止まらせます。
神とのふれあいによって、人に変革体験という心の組みかえがよく起こります。今まで奇妙だ、現実離れしていると感じていたことも、何だかおかしくないように想われてきます。心の中で何らかの変化が芽生え価値観が少しずつ影響を受け、気づいたときには「それもおかしくはないぞ」と感じるようになっています。
今年生誕百年を迎える遠藤周作の物語をこうした観点から読み直してみてはいかがでしょうか。