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いごこち

服部 剛

今日の心の糧イメージ

 人生の出会いは人のみならず、時に一冊の本のこともあります。大正から昭和にかけて活躍した詩人で作家の室生犀星は、私にとってなぜか親しみを感じる存在です。

 故郷の石川県金沢に生まれた犀星は生後間もなく、生家に近いお寺へ養子に出されました。かつて私は一人旅でこのお寺を訪れ、犀星の名前の由来である犀川のほとりで佇みました。また犀星の旧宅のある軽井沢では、庭の縁側に腰を下ろし犀星の詩集を開いたものでした。

 時は流れ、昨年は東京の田端文士村記念館で室生犀星と、親友の芥川龍之介・萩原朔太郎についての展示会がありました。館内に入ると白黒テレビの中から在りし日の犀星が語りかけています。展示された直筆の原稿を見つめていると、社会に出てからも貧しく苦労した犀星の〈必ず筆一本で世に出るのだ...〉という決意が伝わってきました。

 会場では三人の文学についての語らいも想起され、詩人である私の胸中には 〈人が心から切望する詩の一行とは何であろうか?〉という問いが湧いてくるのでした。

 閉館後、外に出ると日は暮れていました。私は見知らぬ田端の街で、犀星ゆかりの場所を求めて歩きました。新たな家の建つ土地には看板があり、そこは田端で幾度も引っ越しをした犀星が最も気に入った場所であったと記されていて、私は偶然の導きを感じました。

 近くの蕎麦屋でこの日の展示をふり返っていると、店の若いご主人が「祖父がこの店をやっていた当時は、室生犀星と芥川龍之介もよく来ていたそうです。お客さん、今日はお二人と相席されているかもしれませんね」と粋な言葉をかけてくれました。

 二人の存在に癒されて、私は在りし日の文人たちの息吹が残る場に想いを馳せた夜でした。