「いごこち」が良い、悪い、という感情について考えたくなりました。「ここは、なんといごこちが良いことよ」と感動することが時々あります。そうかと思えばあまりの「いごこち」の悪さから、早く、ここからにげだしたいと想うこともあります。
いごこちについて知人達と「喜怒哀楽」について会話してみましたら、面白いことに気づきました。ほとんどの人は嬉しいときか楽しいときに「いごこちがいい」と感じていますが、哀しいとか怒りの感情の時にも人生の充実感というものは感じています。その充実感や生き甲斐は正義感からきているようです。考えてみれば私も自分の正義感から怒り心頭に発して、そこに充実感と幸福感、生き甲斐を感じていました。
他の人が私をみて、なんて変な人、と思ったかもしれません。人の人生側に立って共に考えることが必要だなあ、と感じます。
例えば南米で暴動に巻き込まれて、現地の市民と逃げ回ったときは、時の政府側の軍隊を憎みました。1972年頃の南米は、2023年の今思えば、どちらが正義なのか判断しかねる歴史があります。何が正しいのか人類の歴史を学べば学ぶほど不可解な現象があるようです。
「いごこちの良さ」を追及するのが善いことなのか悪いことなのか。いごこちの悪いのを避けるのも必要ですし、求めるのも必要だし、さてさて、どうしたものか?子供から高齢者まで、だれでも好んで「いごこち」の悪い場所、心を求めることは健全と云えませんから、せめて、その時々の自分の人生を迷いながらも、愛である神様に「さて、この場合どうしたらいいのでしょう?」と祈りながら生きていきたいものです。