宮崎駿の『千と千尋の神隠し』には、居心地の悪さと生き辛さを体現する人物が登場します。
カオナシは自信がなくいつも道の端っこを歩いています。心の内を言葉で表現できず、カエルや番頭を飲み込んでは、その声で意思を伝えます。千尋に声をかけられて好きになり、親切がエスカレートして金を差し出しますが、ほしくないと断られると、「寂しい、千、ほしい」と地団太を踏みます。金で周りの歓心を買い、巨大な体に変身し、傲慢になって人に指図し始めます。苦団子を食わされ拒絶されると、切れて暴れだします。
カオナシはうまく生きていく方法を知らず、どう仲間と関わっていけばいいのか分かりません。生きながら居心地の悪さを噛みしめています。
これは他人事とは思えません。初めは薄気味悪く感じられたカオナシにも、人々はあたかも自分を見ているようで、親しみさえ感じてきます。
千尋が迷い込むふしぎの世界の湯屋には欲望や騙し合いが溢れています。カオナシも湯屋から連れ出され銭婆の下で自分の役割を与えられると穏やかになります。仲間たちとお茶をする姿は満足げで、私たちの心も和みます。カオナシが自分の居場所、自らのアイデンティティを見つけた瞬間です。
私たちも生きている世界で日々居心地の悪さを経験します。主のうちに憩うまで私たちの心は安らぐことがないように、神の御許にたどり着くまで、何らかの違和感や居心地の悪さを味わって生きていきます。この世は神が「その独り子をお与えになったほどに」(ヨハネ3・16)愛された場であり、ここで私たちは日々神の国を実現していくように招かれています。それは居心地の悪さを引き受けながらも、神の独り子イエスの生き方に倣って生きようとすることでもあります。