聖書によると、イエスという方は、様々な人たちと食卓を囲んだようです。社会から排除されていた人たちとも喜んで食卓を一緒にしました。それで、ファリサイ派と呼ばれた人たちからは、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言われていました。それに対して、イエスさまは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人であるわたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と答えられています。(マルコ2・17)まさに、あらゆる人たちと食事をされたのです。
また、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ。」(ルカ7・34)と言われるほど、豪快に飲み、食べられたことがうかがえます。そして、ただ飲んだり食べたりしただけではなく、イエスさまの語る言葉に耳を傾け、その場に居合わせるということは、食卓を囲んだ人たちにとって、とてもいごこちがよかったのではないか、と推測できます。
そして、聖書の他の個所では、イエスを招いたマルタという女性が、もてなしのためにせわしく立ち働いていたのに、その姉妹マリアは、イエスの足もとに座って、その話に聞き入っていた、と記されています。マルタは、イエスさまに不平をこぼしますが、それに対して「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と諭されています。(ルカ10・41~42)おそらくマリアも、イエスさまのお話に聞き入っていて、いごこちがよかったのでしょう。
ありのままの私を受け入れてくださるイエスさまと共にいることは、いごこちのよい体験なのだと私は思います。
今日もイエスさまと共に人生を歩みます。